ベン・バーナンキ ベン・バーナンキ 第14代 FRB議長 現職 就任 2006年2月1日 大統領 ジョージ・W・ブッシュ バラク・オバマ 前任者 アラン・グリーンスパン 第23代 CEA委員長 任期 2005年 – 2006年 大統領 ジョージ・W・ブッシュ 前任者 ハーベイ・S・ローゼン 後任者 エドワード・ラジア 出生 1953年12月13日(60歳) ジョージア州オーガスタ 国籍 アメリカ合衆国 配偶者 アナ・バーナンキ 母校 ハーバード大学 マサチューセッツ工科大学 専業 マクロ経済学 ベンジャミン・シャローム “ベン” バーナンキ(Benjamin Shalom “Ben” Bernanke、1953年12月13日 - )は、アメリカ合衆国の経済学者で、専門はマクロ経済学である。第14代連邦準備制度理事会 (FRB) 議長である。姓の Bernanke はベルナンケ[1][2]やバーナンケ[3][4][5]と表されることもある。 目次 [非表示] 1 経歴 1.1 家族構成 1.2 高校・大学にて 1.3 研究業績 1.4 政府機関にて 1.5 年譜 2 バーナンキの背理法 3 参考文献 4 出典 5 註釈 経歴[編集] 家族構成[編集] バーナンキは1953年12月13日にジョージア州オーガスタで生まれ、サウスカロライナ州ディロンで育つ。父・フィリップは薬剤師や劇場の支配人、母・エドナは学校教員をつとめていた。兄弟は弟と妹。弟・セスはノースカロライナ州シャーロットで弁護士をつとめており、妹・シャロンはボストンのバークリー音楽大学で学んだのち長年にわたって同校の経営に携わっている。 当時、家族はいくらかのユダヤ系市民が暮らす地域に住んでおり、オハブ・シャロムと呼ばれる地元のシナゴーグに通ったり、バーナンキ自身も東欧ユダヤ系の母方の祖父からヘブライ語を学んだりした。父方の祖父もユダヤ系で第一次世界大戦後にオーストリアからアメリカに移住し、その後の1940年代にニューヨークからディロンへ移り住んでいる。その祖父から、父と叔父が薬局を譲り受けて経営をしていた。 高校・大学にて[編集] バーナンキは地元の高校に進学。学校では微分積分学を独学したり、学校新聞の編集に携わるなどした。SAT (大学進学適性試験)では1600満点中1590点というその年の州で一番の成績を収め、卒業生総代をつとめる優秀な生徒だった。その他、高校のマーチングバンドに加わっており、全米サクソフォニストにもなっている。 1972年、ハーバード大学へと進学して経済学を学ぶ。在学中は勉学に励むなか、夏には地元・ディロンにあるロードサイド・アトラクション、サウス・オブ・ザ・ボーダーを手伝うためにウェイターをした。1975年、最優等学位をもって同大を卒業。1979年にはマサチューセッツ工科大学で経済学博士号を取得しており、博士論文の題は「長期コミットメント、動的最適化とビジネスサイクル」("Long-term commitments, dynamic optimization, and the business cycle")。それを書き上げる際にはスタンレー・フィッシャーの助力があったという。 研究業績[編集] 1979年からはスタンフォード大学経営大学院で教鞭をとる一方、ニューヨーク大学で客員教授職にもついている。1985年、プリンストン大学経済学部教授に就任し、日銀の政策がいかに間違っていたかを研究[6]。1996年から2002年までのあいだは学部長もつとめた。またこの間、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスでの金融理論・金融政策の講義を行っているほか、マクロ経済学の教科書を3冊、ミクロ経済学の教科書を1冊執筆、全米経済研究所の金融経済学における教程監督、アメリカン・エコノミック・レビュー誌編集者などを歴任している。特にデフレ史の研究に優れ、友人であり同僚でもあったポール・クルーグマンとともに、インフレターゲットの研究者として名を高める。この間、多くの人材を育てた。 政府機関にて[編集] 2002年にブッシュ政権下でFRBの理事に指名されたが、もともと政治色の薄い人物で、同僚にも共和党員であることはあまり知られていなかった[7]。FRBによる通貨の供給不足が1930年代の大恐慌の原因だとするミルトン・フリードマン教授の学説の信奉者で、2002年のフリードマンの90歳の誕生パーティーにおいて「FRBは二度と同じ過ちは繰り返しません」と誓い[8][6]、さらにフリードマンの寓話に倣い「デフレ克服のためにはヘリコプターからお札をばらまけばよい」と発言[9][6]。「ヘリコプター・ベン」の異名をもつ[10][11][12]。2003年には「日本の金融政策に関する若干の考察」という表題で講演し、2001年3月からの日銀の量的金融緩和政策は中途半端であり、物価がデフレ前の水準に戻るまでお札を刷り続け、さらに日銀が国債を大量に買い上げ、減税財源を引き受けるべきだと訴えた[6]。2005年には米国大統領経済諮問委員会 (CEA) の委員長となる。2006年2月1日にFRB議長に就任。戦後生まれでは初のFRB議長である。 2008年に発生した金融危機でゼロ金利政策など緩和政策を実施し、金融機関の救済にあたったほか、景気後退への対応で成果を上げたと評価する声がある一方、金融危機への対応が遅れた、金融危機を招いたのは資産バブルを放置したためという批判の声もあり、2010年1月28日に米上院でFRB議長に再任されたものの賛成70票、反対30票と、信任投票が始まった1978年以降、最大の反対票を集める結果となった[13][14][15]。 2009年、市場の不必要な混乱を避けるためインタビューには応じないという歴代FRB議長の慣行を破り、現職FRB議長として史上初めてテレビインタビューに応じ、自らの出自や金融恐慌の現状等について語った[16]。 2009年3月から1年間、住宅ローン担保証券などを1.75兆ドル買い入れる量的緩和第1弾(QE1)を、2010年11月から2011年6月には米国債を6000億ドル買い上げる量的緩和第2弾(QE2)を、2012年9月からは期限や総枠を設けない無制限な量的緩和第3弾(QE3、「無制限緩和」[17])を実施した。 2012年1月25日、FRB議長として、かねてからの持論であるインフレターゲット導入を実施した[18]。 年譜[編集] 1953年 ジョージア州オーガスタで誕生 1975年 ハーバード大学経済学部を卒業 1979年 マサチューセッツ工科大学にて経済学博士号を取得 2005年 CEA委員長に就任 2006年 FRB議長に就任 2010年 FRB議長に再任 バーナンキの背理法[編集] バーナンキの背理法は、日本のインターネット上で流通した論法である[19]。バーナンキは、デフレ不況に陥った後も、ゼロ金利下でデフレ克服に向けて有効な手だてを施せない日本銀行の金融政策を批判し(インフレターゲット#日本の項も参照)、金融政策によるリフレーションの可能性について自らの論文で以下のように説明した[20]。 Money, unlike other forms of government debt, pays zero interest and has infinite maturity. The monetary authorities can issue as much money as they like. Hence, if the price level were truly independent of money issuance, then the monetary authorities could use the money they create to acquire indefinite quantities of goods and assets. This is manifestly impossible in equilibrium. Therefore money issuance must ultimately raise the price level, even if nominal interest rates are bounded at zero. 日本語訳[note 1]:貨幣は、ほかの政府債務とちがい、利子の支払いも満期もない。通貨当局は貨幣をすきなだけ発行することができる。だから、もし本当に物価水準が貨幣の発行と関係なければ、通貨当局は、財や資産を無制限に得るために貨幣をつくってつかえることになる。これはあきらかに均衡しない。そういうわけで、たとい名目利子率の下限がゼロであっても、結局のところ、貨幣の発行は物価水準をひきあげるはずである。 — Ben S. Bernanke 、Japanese Monetary Policy: A Case of Self-Induced Paralysis? これが日本でバーナンキの背理法と呼ばれるものであるが、バーナンキ本人にとってこの論法は、特定の個人名をつけて呼ばれる程のものではなく普通の論法であるという。なお、高橋洋一によれば、この背理法での難点は、いつインフレになるのか、そのために必要な国債買いオペ額を特定できないことである[21][22]。 参考文献[編集] バーナンキ「出口戦略」の真相 - 東洋経済オンライン 2013年6月26日 出典[編集] ^ A.B. エーベル, B.S. ベルナンケ『マクロ経済学』伊多波良雄 [ほか] 訳, シーエーピー出版, (入門編) ISBN 4-916092-22-8, (応用編) ISBN 4-916092-23-6 ^ “不良債権問題に関する国際フォーラム (概要)”. 経済社会総合研究所 (内閣府) (2001年10月11日). 2012年12月16日閲覧。 ^ “第1章 第3節 金融政策における期待形成と物価連動債”. 『世界経済の潮流』 2003年秋. 内閣府 (2003年10月). 2012年12月16日閲覧。 ^ “不良債権問題に関する国際フォーラム出席者リスト”. 経済社会総合研究所 (内閣府) (2001年10月11日). 2012年12月16日閲覧。「不良債権問題に関する国際フォーラム (概要)」の別紙2。 ^ 小田信之 (2002年8月). “量的緩和下での短期金融市場と金融政策─日銀当座預金残高ターゲティングの分析─ (PDF)”. 『フィナンシャル・レビュー』第64号 August-2002. 財務総合政策研究所 (財務省). 2012年12月16日閲覧。 ^ a b c d 田村秀男 『財務省「オオカミ少年」論』、東京: 産経新聞出版、2012年1月。ISBN 978-4-8191-1152-2。 NCID BB08566334。 ^ 毎日新聞2005年10月26日 ^ Bernanke, Ben S. (November 8, 2002), On Milton Friedman's Ninetieth Birthday, The Federal Reserve Board 2012年5月3日閲覧。 ^ Bernanke, Ben S. (November 21, 2002), Deflation: Making Sure "It" Doesn't Happen Here, The Federal Reserve Board 2012年5月3日閲覧。 ^ 山広恒夫 『【FRBウオッチ】ヘリコプター・ベンのマネー集中投下で「太った猫」』 Bloomberg L.P. 、2009年12月22日。2012年5月2日閲覧。 ^ 『ヘリコプター・ベン :きょうのキーワード』 日本経済新聞、2009年8月30日。2012年5月2日閲覧。 ^ 田村秀男 『超円高の底流にみえる日銀総裁とFRB議長の確執』 産経新聞、2011年9月19日。2012年5月2日閲覧。 ^ “FRB議長の再任を承認、反対票が異例の多さ”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2010年1月29日) 2010年1月29日閲覧。 ^ “バーナンキFRB議長再任を可決 米上院、反対票も最多の3割”. 日本経済新聞. (2010年1月29日) 2010年1月29日閲覧。 ^ “バーナンキFRB議長再選:賛成70、反対30の賛成多数、市場好感へ”. 財経新聞. (2010年1月29日) 2010年1月29日閲覧。 ^ Bernanke, Ben S.; Pelley, Scott (2009-03-15), Ben Bernanke's Greatest Challenge, cbsnews.com 2010年7月15日閲覧。 ^ Jason Haver. ^ “米FRBが2%のインフレ目標導入、毎年1月に見直し”. ロイター・ビジネスニュース (トムソン・ロイター). (2012年1月26日) 2012年1月26日閲覧。 ^ 田中秀臣・野口旭・若田部昌澄 『エコノミストミシュラン』 太田出版、2003年、115頁。 ^ Bernanke, Ben S. (December 1999) (英語) (PDF), Japanese Monetary Policy: A Case of Self-Induced Paralysis?, Princeton University, p. 14 2012年5月2日閲覧。 日本語版: 三木谷良一;アダム・S.ポーゼン 編、清水啓典 監訳「自ら機能麻痺に陥った日本の金融政策」、『日本の金融危機:米国の経験と日本への教訓』 (東洋経済新報社)167-168頁、2001年。ISBN 4-492-65292-2。 ^ 高橋洋一 「米の中央銀行総裁は著名な学者 バーナンキはわかりやすさがモットー」、『日本国の研究 不安との訣別/再生のカルテ 第0393号』 (猪瀬直樹事務所)、2006年5月11日。2012年12月1日閲覧。 ^ 【日本の解き方】“3年財政破綻説”のインチキぶり喝破!zakzak 2012年6月20日(2012年6月23日時点のアーカイブ) 註釈[編集] ^ この訳文は本項の執筆者による。 ウィキメディア・コモンズには、ベン・バーナンキに関連するメディアがあります。 公職 先代: アラン・グリーンスパン FRB議長 第14代:2006年 - 次代: (現職) 先代: ハーベイ・S・ローゼン CEA委員長 第23代:2005年 - 2006年 次代: エドワード・ラジア